Edit your comment 此の邪馬台国は「三国志の一部で、創作だった」と言うた、尊敬する田中英道先生の断言で、歴史ファンの私は、どれ程、留飲を下げたかwww 実は私は、日本の歴史を西暦に直そうと言う、無謀な試みをやって居るのですが、いろいろ調べて行く裡に、卑弥呼の入りこめるような時代が見つからないので、永年苦慮して居たのです。其処へ、「卑弥呼は、日御子であり、物語は創作である」との田中説が飛び出して、本当に救われて居ます。 綿日の調べた処、日本史には多くの謎の時代が有って、その原因の大半は、蘇我入鹿の誅殺事件で有る乙巳の変後、自宅に逃げ帰った父親の蘇我蝦夷が、家に放火して自害したのですが、蘇我家の書庫に保管してあった、仏教の教典と日本の先史時代の記録も一緒に(故意に)焼けて終った事に有ると思われます。 先史時代の記録の中には、先ず、神武東征の真の目的、倭国大乱の原因、三韓征伐の真相、就中、仲哀帝の次の応神帝の即位迄に70年と言う空白期間が有り、その間、天皇が畝傍を留守にして居たが、8年間の在位しかない仲哀帝の皇子であった、2人の皇子が謀殺されている史実が有る事等の裏には、秘められた現実が有るのはほぼ確実です。 留守中にクーデター未遂が2回も有った可能性が有りますね。<年代は宮内庁出典の天皇家系図参照(Wikipedia)> 応神帝の出自に疑問が有るので、帝が初代に成る河内王朝「=和泉・河内平野開拓の結果現れた穀倉地帯、古墳時代の始まり」での仁徳帝や「倭の五王」の話や大伴の金村に殺害された武烈帝の次の帝に成り手が居ずに、当時は敵であった丹波のオオド王を、応神帝5代の末の子孫として、継体帝に向かえる話なども、謎だらけです。 就中、中大兄皇子(天智帝)と大海人皇子(天武帝)は、天智帝の娘を3人とも、天武帝の后にして居る事や、大海人皇子の背後勢力は、丹波や淡海(おうみ=琵琶湖)沿岸を根城とする海人族の息長氏(おきながし)であり、先祖に当たる継体帝も、この一族の出身であると言う話なのです。処が天智帝の背後勢力は、母方の吉備勢力ですから、色々考えてもお二人は実の兄弟ではない可能性が高い。 天智帝が生前に行った、半島への出兵が大失敗に終わりましたが、一番の被害を受けたのは、大海人皇子の背後勢力の海人族でしたが、天智帝はその遺領を、ナント、百済の亡命貴族に与えたので、大海人が怒って抗議の途中、鉾を畳に突き立てたら、床まで突き抜けたと言う。 是に驚いた天智帝は病気と称して,寝込んでしまう。 天智帝の性格を熟知して居た、大海人皇子は、身の危険を感じ、直ぐさま剃髪して出家して、吉野に身を隠す、其処を天智帝の息子が着け狙い、天智帝お隠れに成ると、息子は即位して弘仁帝となり、大海人追捕の詔勅を出し、壬申の乱のが起こったのですが、この話には、皇室の秘密が幾らでも含まれており、如何にひねっても、大河ドラマにする話には、成らないのです。 皇統には、秘密が満載ですからね。 でも譬え、どの様な由来で有ろうとも、今の天皇陛下も、先帝陛下も、個人として心から御立派な方だと、思って居ますので、今更、評価を変える気はありません。 歴史には、知らない方が良いことも有ると先人が判断したのなら、子孫の我々は、徒にそれを弄る事は、慎みたいと思いますね。 唯、江戸期の農村の自然発生的な社会主義は、日本の伝統の、助け合いと平等主義で出来た、世界に誇れる「和の構造」だと思いますから、為政者と納税者間の理想的な信頼関係こそ、皆が、大きな災害に遭っても、共に助け合って、貧乏に耐え抜く秘訣の様なモノだと思いますから、ちゃんとした正史を教えて頂きたいですね。 SECRET SendDelete