古事記、日本書紀をないがしろにする今の歴史学会では、とても日本人の精神は解明でけへんな。

ユーラシアの遊牧民には英雄叙情詩を語る文化があります。語り手が天幕に人を集め、チンギスハンやアレキサンダー大王などの壮大な物語を延々とそらんじる。長い物語だと数カ月間も語り続け、そういうときは「今日はここまで語るよ」とあらかじめ区切って、1日2、3時間、何も見ずに即興で語るんです。語り手は大変尊敬されていますが、ほとんどの人が字を読めない。読めると物語の内容を書いて残し、それを記憶して頭の中で読むから情報量が限られてしまう。字が読める語り手の調査を行ったことがあるのですが、その物語は圧倒的に短かったですね。
遊牧民は語り手以外の普通の人も記憶力がすごい。一家の祖先の名前とそのころの一族の状況も代々、語り継がれているんです。モンゴル人は7代くらい前までで、私も子供のころまでは頑張っていました。カザフ人はすごくて27、28代前の祖先まで遡(さかのぼ)っていける。文化人類学では1代を20年と数えますので、カザフ人は500年以上前の1500年代、日本でいえば室町時代に自分の祖先がどこで何をしていたか、ごくふつうのおじいちゃんがすらすら話す。
光秀は、これまで「主殺し」「謀反者」という評価しかなく、英雄とはおよそ無縁の武将として過小評価されてきた。その最大の理由は、豊臣秀吉が右筆たちに命じて明智光秀を極悪人と描く情報操作を展開した結果、徹底的に誤解されてきたためだとわたしは考える。
「ときはいま 天(あめ)が下(しも)しる 五月かな」
「あめがしもしる」を「雨が降って寂しい心境」などと解釈するレベルは論外である。古事記、日本書紀に頻出する「天の下」「しらしめす」とは天皇の統治を意味する。「天皇親政」をうたう『神皇正統記』と『愚管抄』のバックボーンとなる思想を紡ぐ言葉である。光秀はこうした教養を前提に、「しもしる」という言葉を選んだのだ。
第一に歴史学界、歴史論壇には一種独特な「空気」があり、学閥が蔓延り、学者らは視野狭窄(きょうさく)に陥っている。
第二に戦後の歴史学者の多くがじつは古事記、日本書紀を読んでいないか、もしくは一読しただけで済ませているという知的貧困である。だから「天が下しる」の意味が理解できない。知的劣化である。
第三が神話の位置づけだろう。古事記にみられるような神話を評価しない思考回路では、光秀の志を理解することもできない。また、合理主義の影響を受けすぎた現代歴史学は科学的・客観的事実のみに重点が置かれ、資料読みが専門の歴史研究者は文献の解釈のみという視野狭窄に陥りやすい。光秀に汚名を着せるための、秀吉がなした歴史改竄を見抜くことができないのだ。
東大法学部の大物学者が言い出した間違いだらけの憲法解釈は弟子達によって今なおばらまかれ、内閣法制局や最高裁判所にまで影響を及ぼしている。

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