首相の靖国参拝を阻止しようとこじつけた「富田メモ」。今から考えたらこれも工作やったんか?

指差し小


 もう今日からは、日本中がお盆モードになっていますね。何百年も変わらぬ日本の風景が、今年は武漢コロナのせいで滅茶苦茶になっていますが、まだ昭和20年のお盆の時よりはずっとマシなんでしょうね。二度とあんな悲惨な目に遭わんように、私ら日本人はちゃんと勉強してるんやろか?ご先祖様に顔向けできるんやろか?反省せなあきませんね。

 昨日は靖国参拝の話で「A級戦犯」、「富田メモ」の語が出ましたので、その話です。私らぐらいの年代ではもう「A級戦犯」と言えば東条英機のことで、ヒトラーと並ぶ先の大戦で「一番悪いやつ」、極悪人、みたいなイメージで教えられてきたと思います。

 恥ずかしながら私が「覚醒」してからは、もともとA、B、Cは罪の等級ではなく、種別のこと、そして日本には「A級戦犯」は今はいない、ということを知りました。今ではWikipediaでさえ、正しく書いていますね。それでもアホのマスゴミは「あいつが一番悪いやつや」という意味での「A級戦犯」という言葉を好んで使いますね。問題はそこやな。

 戦勝国によって行われた国際法違反の東京裁判(極東国際軍事裁判)、インチキ茶番の裁判で濡れ衣を着せられた「A級戦犯」という言葉は、それこそ「言葉狩り」でもせなあかんのとちゃうか?私ら日本人はあの茶番インチキ裁判を認めません、という意志表示を含めて、ですね。

 そして「富田メモ」の話です。平成18(2006)年7月20日の日本経済新聞の朝刊1面に、次の見出しと記事が出ました、と。
昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ
 昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い。
 この富田さんは2003年に亡くなっていて、この「メモ」は2006年5月に日経新聞が遺族から入手し、日本史研究家である秦郁彦・半藤一利の両人に分析を依頼して、この記事になった、ということですね。

 先に結論を書いておきますと、このメモの信憑性はめっちゃ低く、その文言が書かれていたとしても、前後の脈絡やら、メモの他の部分との照合なども必要になるはずですが、今に至るもこのメモの現物は公開されていません。昨日も書きましたが、櫻井よしこさんがすかさず『週刊新潮』に見事な反論を展開して、疑義を呈してはります(『昭和天皇』A級戦犯メモ 富田メモの危うい『政治利用』)。

 昭和天皇のことをしっかり理解していたら、どう考えてもこのメモの文言は辻褄が合わへん、ということです。つまりは富田氏が誤解していた可能性もあるし、その部分だけ取り出して、こじつけて、ひたすら「昭和天皇がA級戦犯を靖国に合祀したことに不快感を持たれた」という結論「だけ」を作り上げたかった、ということです。

 ふうーん、朝日新聞とそっくりやな。櫻井よしこさんだけではなくて、保守陣営はたぶん大騒ぎ?になったことでしょう。その後の展開もスゴいものでしたね。ここはWikipediaから引用しましょう。
当時、小泉純一郎首相は任期の末年を迎え、「8月15日に靖国参拝する」という公約を過去3年間果たしておらず、その動向が注目されており、終戦記念日の8月15日に靖国神社に参拝するべきかどうかで議論が盛んであった。小泉は記者会見で自らの靖国参拝への影響を否定し、後日8月15日日中に報道各社が中継する中、靖国参拝を行った。
 ははーん、そういうことやったんですね。日経新聞、もう工作活動そのまんまやないですか。何としてでも靖国参拝にケチを付けたい勢力、今となってはそれはCHINAにつながる人たち、と推測されますが、いつものサヨクの「切り貼り」の手法で、マスゴミが「一斉に報じる」という形で、いかにも事実かのように持って行く、というやり方ですね。

 その後、日経新聞は有識者による「富田メモ研究委員会」を設置し、翌2007年4月30日に報告を出して、このメモは「昭和史研究の貴重な史料」と評価した、と。そして特に、日経新聞が報じたA級戦犯靖国合祀に不快感を示した昭和天皇の発言については「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」と結論付けたんやそうです。

 もう日経新聞も必死やったんやな、ということです。有識者による委員って、御厨貴(東京大学教授)、秦郁彦(現代史家)、保阪正康(作家)、、、。怪しいなあ(笑)。「富田メモ」はいまだに公開されてへんと書きましたが、報道などで公開された部分だけでも、辻褄の合わへん話が多すぎて、今ではあちら側の学者でこの話を持ち出す人さえいなくなっているようです。

 ところが、です。勉強せえへんマスゴミ(産経以外)は相変わらずいまだに「昭和天皇が不快感を示されたA級戦犯の合祀」と言い続けてるわけです。やっぱり問題は反日マスゴミですね。明らかに間違いとわかっていることでも知らん顔して報道し、都合の悪いことは一切報道せえへん、と。日頃、朝日、毎日、共同あたりを私は叩いてますが、日経もちゃんとお仲間ですからね。気いつけましょう。

 暑い暑い今年のお盆。まだしばらくは暑さも続きそうですが、私ももっと熱く(笑)追及していくことにします!

【文中リンク先URL】
http://www.avis.ne.jp/~nihao/06syowa-tenno-memo.htm
https://yoshiko-sakurai.jp/2006/08/03/508
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E3%83%A1%E3%83%A2

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ナニワの激オコおばちゃん
Posted byナニワの激オコおばちゃん

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彩希  

昭和天皇がマッカーサー元帥との会見に御自ら赴かれた時の御様子、御言葉の証言記録は色んな人が取り上げていますが、マッカーサー元帥が「私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで絞首台に上がることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」と述べています。

天皇陛下が仰せになった御言葉やお考えを推測するなど畏れ多いことですが、臣下の者がやった事の全ての責任を御自分の一身で償うと仰せになった昭和帝がA級戦犯を靖国に合祀したことに不快感を持たれた……?それは無いでしょう。

🔻昭和天皇・マッカーサー会談の「事実」
敵将を心服させた昭和天皇の御聖徳
http://www.seisaku-center.net/node/122

(前文を省略 )
一方、扶桑社の教科書は、ご会見の中身をこう記している。「終戦直後、天皇と初めて会見したマッカーサーは、天皇が命乞いをするためにやって来たと思った。ところが、天皇の口から語られた言葉は、『私は、国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためお訪ねした』というものだった」と。

  さらに、「私は大きい感動にゆすぶられた。(中略)この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」という『マッカーサー回想記』の有名な一文も載せている。
 かかる重大な史実を扶桑社以外の教科書が記述しない真意は測りかねるが、『マッカーサー回想記』が伝える戦争の「全責任を負う」との天皇のご発言については、その信憑性を疑う向きもあるのは事実である。

 その主な原因は、昭和五十年に児島襄氏が公表した「御会見録」である。九月二十七日の会見に同席した通訳官が記したというこの「御会見録」には、マッカーサーが伝えたような天皇のご発言がなかった。もともと児島氏は天皇の戦争責任を否定する立場から、ご発言の信憑性に疑問を発していたのだが、これで児島氏の疑念はいよいよ深まった。

 さらに三年前、それとほぼ同一の「公式記録」を外務省が公開するに至り、マッカーサー発言を「作り話」と否定したり、「天皇はむしろ国民に責任を転嫁しようとした」という声さえ上がる始末となったのだ。

 結論からいえば、天皇が戦争の「全責任を負う」と述べられたのは事実であり、この「捨て身」のご精神によって、戦後の日本と日本人は救われたことは間違いない。

 以下、この歴史的会見における昭和天皇のご発言について、様々な証言を整理・再検証してみたい。

◆十年後に明かされた「歴史的事実」

 昭和二十年八月三十日、連合国軍最高司令官ダグラズ・マッカーサー元帥は神奈川県の厚木飛行場に到着した。九月二日、横須賀沖に停泊する米戦艦ミズリー号上で降伏文書の調印が済むと、マッカーサーはGHQ総司令部を横浜から皇居の真向かいに位置する第一生命ビルに移し、占領政策に本格的に着手した。 

 昭和天皇が米国大使館の大使公邸にマッカーサーを初めて訪問されたのは九月二十七日のことである。この会見がもたれるに至った経緯については種々の推測があるが、「天皇御自身の発意であり、マッカーサーの側ではそれを待っていたとばかりに歓迎したというのが実相だった」(小堀桂一郎『昭和天皇』)といってよさそうだ。

 天皇にお供したのは、石渡荘太郎宮内大臣、藤田尚徳侍従長、筧素彦行幸主務官、通訳の奥村勝蔵外務省参事官など六名。が、会見に同席したのは奥村参事官のみだった。

 会見後、奥村は会見の内容についてのメモを作成した。それは、外務省から藤田侍従長のもとへ届けられ、侍従長から天皇へ手渡された。通常であれば、その種の文書は侍従長の元に戻されるが、そのメモは戻されなかった。会見の内容は公表しないというマッカーサーとの約束を守るための措置だったと思われる。

 日本人が会見の内容を初めて知り、深い感動に包まれるのは、それから十年後のことだ。すなわち、「天皇陛下を賛えるマ元帥――新日本産みの親、御自身の運命問題とせず」という読売新聞(昭和三十年九月十四日)に載った寄稿が最初の機会となる。執筆者は、訪米から帰国したばかりの重光葵外務大臣であった。

 重光外相は、安保条約改定に向けてダレス国務長官と会談するために訪米したのであるが、この時マッカーサーを訪ね、約一時間会談した。先の外相の寄稿は、その際のマッカーサーの発言を紹介したものだ。

 次に、その寄稿の一部を紹介したい。重光によれば、マッカーサーは、「私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである」と述べた後、陛下との初の会見に言及。「どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました。しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました」として、次のような天皇のご発言を紹介したというのである。

 「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います」

 そしてマッカーサーは、このご発言に関する感想をこう述べたという。

 「私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで絞首台に上がることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」

  この天皇のご発言を知らされた重光外相は、次の感想を記している。

 「この歴史的事実は陛下御自身はもちろん宮中からも今日まで少しももらされたことはなかった。それがちょうど十年経った今日当時の敵将占領軍司令官自身の口から語られたのである。私は何というすばらしいことであるかと思った」

 扶桑社の歴史教科書が引用している『マッカーサー回想記』が出版されたのは、それから九年後の昭和三十九年のことである。

◆GHQ側の「証言」

長いので以下略しますが、色んな検証が書かれていて興味深い記事でしたので良ければお読み下さい。飢えに苦しむ臣民を思われる陛下のお気持ちに打たれたマッカーサー元帥が日本人に食糧をもたらしてくれたことが最後に書かれていました。

そして、マッカーサーと昭和天皇との間に「初めに敬愛ありき」とでもいうべき鋳型が出来たことにより、実は戦後の多数の日本人の命が救われたともいえるのである。その点については、当時の農林大臣であった松村謙三氏の『三代回顧録』に詳しく書き留められている。ここではその要点のみを記しておく。

 終戦直後の日本は食糧事情の悪化に直面しており、昭和二十年十二月頃、天皇は松村氏に対して、「多数の餓死者を出すようなことはどうしても自分にはたえがたい」と述べられ、皇室の御物の目録を氏に渡され、「これを代償としてアメリカに渡し、食糧にかえて国民の飢餓を一日でもしのぐようにしたい」と伝えられた。

 そこで当時の幣原首相がマッカーサーを訪ね、御物の目録を差し出すと、非常に感動したマッカーサーは、「自分が現在の任務についている以上は、断じて日本の国民の中に餓死者を出すようなことはさせぬ。かならず食糧を本国から移入する方法を講ずる」と請け合ったという。

 松村氏は記している。「これまで責任者の私はもちろん、総理大臣、外務大臣がお百度を踏んで、文字どおり一生懸命に懇請したが、けっして承諾の色を見せなかったのに、陛下の国民を思うお心持ち打たれて、即刻、〝絶対に餓死者を出さぬから、陛下も御安心されるように……〟というのだ。……それからはどんどんアメリカ本国からの食糧が移入され、日本の食糧危機はようやく解除されたのであった」

2020/08/13 (Thu) 22:44

令和晴耕雨読人  

涙が止まりません

彩希さん、有難うございます。

2020/08/14 (Fri) 17:38

ナポレオン・ソロ  

No title

私も、昭和帝のご業績で最も優れていたのは、戦後に捨て身で国民を思う大御心をお示しになられた
事で、却ってそれが相手の将軍を心から感動させて、結果、敵意マンマンだった米軍の日本統治が、急転直下、親日的なものに変わって行った事にあると思います、何故ならWGIPの主旨は、日本人の改造であり、国民に現人神と崇敬されている天皇陛下こそ一番の障害だったのだから、その帝が自ら、面会にやって来ると言うのなら、目的は自身の命乞いと考えるのが、フィりピンの支配者一族として、王族達を観察して来たマッカーサーに取って、当然の思いだったろう。

処が命乞いは命乞いでも、国民の命乞いで有ったから、マッカーサーは心底吃驚した、是で、彼は陛下のファンになってしまったのである。

もう一つ、ご業績で傑出して居るのは、全国のご行幸でしょう。 凡そ、10年以上に亘って、終戦直後なので、時には草生す荒寺にお泊りになられた事もあったとか、然し、この申請を受けたGHQは冷ややかで、全国をまわって居る裡に、きっと、酷い目に遭って、救いを求めて来ると確信していた、然し、全国どこへ行っても、国民は大歓迎で、開催した国民との対話集会では、様々なドラマが繰り広げられ、時には陛下が立ったままで、滂沱の涙をお流しになられ、満員の場内が共に号泣したと言う話もあり「国民の身を案じて始めた行幸は、大成功だった」ただ、沖縄だけは、未返還だったので、行幸先から抜けて居るが其処を、当時は皇太子であられた平成帝が行幸され、旧領のマリアナ諸島も足を伸ばされ、慰霊を行って居らっしゃいます。

昭和帝~平成帝へと伝えたのは、今上帝が国民の「癒しの拠り処」足らん為されている事でしょうね。一貫しているのは「国民に寄り添う事で、その存在感で、不安を和らげる事」を目指されて居る様に感じます、世界中何処を探しても、他にこんな国家元首はいませんね、有り難い事です。

2020/08/14 (Fri) 18:09

sana  

天皇陛下

天皇陛下が真の天皇陛下であられたのは

昭和帝が最後であったように思います。

2020/08/14 (Fri) 20:54

sana  

正しい歴史認識さんのコメ欄より転載

■富田メモの真偽性について
天皇の中立性を侵した日経こそ問題

週刊文春は過去にはこういったまともな記事も掲載されていた時代があった。

あのころゴロツキ記者どもの狂ったようなキャンペーンに正面から抵抗した政治家や知識人は本当に少数だった。

◆天皇の中立性を侵した日経こそ問題  養老孟司
小泉首相は靖国に関して「心の問題」といいますが、その通りで、本人の問題だと思います。

行きたいのであれば行けばいい。そのことでメディアに叩かれることもない。それが「信教の自由」だと思います。

首相が参拝すると様々な問題がある、といわれますが、問題が「ある」のではなくて、メディアが問題を「作って」いるんですよ。

「経済に影響する」というのもメディアですが、本当に影響があるのか。

今回も、日経新聞がスクープによって新たな「問題」を作り出した。
「天皇の中立性」というものを日経の記者はどう考えているのか。

昭和天皇ご自身は、自らの政治的中立性を、強く守っておられたはずです。

今の天皇陛下も、色々とおっしゃりたいことはあるでしょうが我慢している。

「天皇の中立性」とは、天皇陛下が我慢しさえすれば守られる、というものではなく、皆がそういう意識を持つことで守られるものです。

「これは特ダネなんだから、天皇の中立性なんて潰してもいい」と考えたのでしょうか。

メディアは今一度自らの倫理基準を問い直すべきです。

「天皇の政治的中立性なんて、ウチの会社は認めませんよ」というのなら、現在の天皇制のあり方自体を考えなくてはいけなくなる。

天皇陛下のプライベートな発言を、今度は別の社が「こういうことも言っている」と使うかもしれない。

そういう天皇制の根幹に関わることを、勝手に一社が、スクープのためにやらないでくれ、といいたい。

新聞は「談合を許すな」と書きますが、自分たちにも職業倫理がないなら、そういうことを書く資格はない。

私は、今回の騒動の中で本当に国益を考えて行動したのは、福田康夫さんと小泉首相だと思っています。
福田さんは、日経の記事が出た翌日には不出馬を表明した。「国論を二分することになりかねない」というのは明らかに中国を意識した発言です。

富田メモで、参拝反対派に追い風が吹き、世論が安倍、福田でまっぷたつに割れる、ということを恐れたのでしょう。

小泉さんが「心の問題」といって、大事(おおごと)にしないのも、極めて正しい対応だと思いますよ。

今、戦争で亡くなった方のためにお参りしようと思ったら、靖国神社以外にはありません。

そして、戦犯もある意味では戦争の犠牲者です。戦争とはそういう犠牲者を生む行為だということを、あそこに参拝することで示してもいる。

靖国をなくしてしまったら、日本人の記憶から戦争自体が消えちゃいますよ。
(引用終了)

2020/07/24(金) 11:36:20 | URL | まんぼう #- [ 編集 ]
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富田メモの真偽性について
ウィキペディアにも掲載されているが私は以下の分析が正しいと思う。

・若狭和朋
メモが昭和天皇の発言であることについて「ちょっとタチの良くない冗談だ」という認識を示した。
その理由として、メモにある昭和63年4月28日にプレスとの記者会見を昭和天皇はされておらず、その日に会見されたのは12日に退職された徳川前侍従長である。

それはその記念の記者会見である。加えて、メモにある「高松薨去の時…」などと弟宮のことを昭和天皇が「薨去」と発言されるはずが無い。

これは「臣下のものが宮殿下の逝去のことを『薨去』と使う」とし、このメモの内容は昭和天皇の発言ではなく「徳川前侍従長の発言」であるとしている。

・岡崎久彦
「本物であるはずがない」「昭和史の基礎的な知識があれば(富田メモに)信憑性があると考えるはずがない」と主張し、死後に出版された回顧録では、昭和天皇は「ですます」調の言葉は使わない昭和63年頃の証言だけで、その前の証言が何十年、一切ないのも不自然

千代の富士が連勝を続けていた昭和63年の七月場所か九月場所の頃、(相撲が大好きな昭和天皇が)「もう相撲はご覧になっていない」と宮内庁の人間に聞いたことから、(容態が相当悪く)あの頃の証言の記録は少し怪しいことを根拠として挙げている。

・百地章
公の発言ではなく非公式のメモをA級戦犯分祀論に結びつけるのは、天皇の政治利用になりかねない

※最後の百地章氏の見解にそって意見を書かれたのが前述の養老氏の意見

http://deliciousicecoffee.jp/blog-entry-7966.html#comment
2020/07/24(金) 11:45:33 | URL | まんぼう #- [ 編集 ]

2020/08/14 (Fri) 21:10

みかん  

昭和天皇の短歌

やはり昭和天皇御本人のお書きになったものが、いちばんお心を表しておられると思うので、私も富田メモを信用していません。

昭和天皇は、岸信介元首相が亡くなった時、その思いを短歌に表しメモを遺しておられます。

その上にきみのいひたることばこそ
おもひふかけれのこしてきえしは
言葉は聲なき聲のことなり


安保闘争で国会を大群衆に取り囲まれながら、死を覚悟して安保改定を成し遂げた岸首相を、昭和天皇は高く評価していたんですよね。
岸氏は戦犯として巣鴨プリズンに収容された経歴を持っています。

昭和天皇は日本が戦争に至った理由も、東京裁判が不当であることも、全てわかっておられたのだと思いました。そしてその思いを、はっきりと口に出せない苦しみに苛まれておられたのではないでしょうか……

ですから、靖国参拝できなかった理由が「A級戦犯」合祀、であるはずがありません。

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私が幼児の頃(戦後20年くらい)の記憶ですが、昭和天皇が近くの町に行幸されることになりました。
母も祖母も(長男が徴兵で戦死)、村のおばちゃんたちも「おらも行きたい行きたい」と、まるでスーパースターに会いに行くような大騒ぎでした。

私はテレビでよく見るおじいちゃんと思っていましたが (てんのうへいかさまって、なんかすごい大人気のお方なんだなぁ…)と印象深かったことでした。
今はとても昭和天皇を尊敬しています。

2020/08/15 (Sat) 09:44

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