実は負けたわけではなかったんや、「薩英戦争」。幕末、明治の日本人の気概に学ぶ。

指差し小


 もとはと言えば私が入れてもろてるメーリングリストからの情報ですが、ブログにもなっていますのでご紹介です。伊勢雅臣さんが書いてはる「国際派日本人養成講座」の「No.1099 薩英戦争 ~ 大英帝国を驚かせた和魂洋才」です。

 私が、何かおかしいと思ていろいろ勉強して本も読むようになって知ったことは、今まで教えられてきた「歴史」の中にはけっこうウソや偏向が多いということでした。そして今やそれは「自虐史観」としてかなり知られるようになってきました。それでもまだまだ知らなあかんことはいっぱいあります。今日の話は「薩英戦争」の話です。

 そもそも「自虐史観」では、幕末のペリー来航に際して、「鎖国」していて無知で遅れていた日本人が、ひたすら大騒ぎしていたように教えられたと思います。この「薩英戦争」も、そもそも今で言うたら国の中の一つの「県」が、何で外国と戦争ができるんや、何にも知らんアホな日本人が、「生麦事件」という、前時代的な大名行列を横切っただけでイギリス人を斬り殺すという残虐な事件を起こしてしもて、イギリスに鹿児島市内を砲撃されてえらい目に遭うて、薩摩藩が謝って終わった、ぐらいの認識でした。

 上の伊勢さんの記事をぜひ読んでください。実はイギリス側は「生麦事件」の賠償を求めて、まずは横浜に軍艦を停泊して幕府を脅迫し、賠償金をせしめたんですね。その後、今度は軍艦を鹿児島湾に向かわせて薩摩藩からも賠償金を取ろうとしたわけです。ところが薩摩藩ははるか以前の第8代藩主、島津重豪(しげひで)の時代から、既に軍備の近代化に注力してた、と。

 そして有名な島津斉彬(なりあきら)の時代には、<大砲、小銃をはじめ弾丸、火薬、各種ガラスなどの製造を行った。また造船にも情熱を傾け、日本最初の国産蒸気船を建造している。>
 また、<斉彬はアヘン戦争を欧米諸国の日本植民地化の前触れと判断し、その危機感から『阿片(あへん)戦争始末記』を著して諸藩に警告を与えた。同時に、最初に侵攻の対象となるのは、地理的に見て薩摩藩と考え、海岸防備に余念がなかった>んやそうです。

 そしてこの生麦事件の後は、どうせイギリス艦隊が来るやろうと考えて、鹿児島湾は要塞みたいになっていたそうです。そこへイギリス艦船がホンマにやってきて、威嚇を始めた、と。そしてある日いきなり薩摩軍の艦船を拿捕したことから戦闘が始まり、もちろん、大砲の性能はイギリス軍がはるかに上回ってはいたのですが、薩摩軍は果敢に応戦し、イギリス艦隊の艦長、副長は戦死するなど、被害はイギリス軍の方が大きかったそうです。

 そこでイギリス艦船は、撤退する前に鹿児島市内に向けて砲撃を加えたんですね。ところが
 <ニューヨーク・タイムズは、社説で「イギリスの残忍な行為」として厳しい非難を浴びせ、宣戦布告もなく、女、子供、病人が住む町を不意に砲撃した事を、非人道的行為だと糾弾した>。
 <イギリスの新聞も、この戦争は大英帝国の名誉を傷つけるものだという記事をのせ、議会でも市街を焼いた行為は戦争の慣行に背くもので甚だ遺憾だ、という動議が提出されたが、多数派に否決された。>

 イギリス軍は甚大な被害を被っていったん本国に帰ったわけですから、必ずしも薩摩軍が負けたわけではなかったんですね。ところがここが当時の藩主、島津久光のスゴいところです。
 <国内は乱れに乱れている。内を整えて、しかる後に外にむかわねばならぬ。御国のためには、いかなるそしりを浴びようとも苦しくない。>
 当時日本国内は「尊王攘夷」の声が大きく、国内が大分裂していたわけですね。日本は天皇のもとにまとまって、一致団結して外国に対抗せなあかんと思た、ということでしょう。そして
 <薩摩藩からイギリスに和議を請う恥辱は避けなければとってはならないとして、幕府に仲介の労をとって貰う形とした。>

 この「和議」では何とイギリスから軍艦を購入することになりました。イギリスの公使代理ジョン・ニールに対し、堂々と見事に対等にやり合った重野厚之丞という人は、藩校造士館に学んだ後、江戸で学び、英語の読み書きもできる俊英やったんやそうです。これ以後、「攘夷」の声は下火になっていったようですね。

 伊勢雅臣さんの結びの一文をコピペします。
 <薩摩が薩英戦争で発揮した、近代文明を積極的に取り入れつつ、武士道精神を発揮する、という和魂洋才の姿勢は明治日本が国家的規模で再現し、イギリスとの信頼関係は日英同盟にまで発展していくのである。>
 私ら今の日本人は、幕末から明治時代にかけての日本人の気概を、もっともっと勉強せなあきませんね。


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ナニワの激オコおばちゃん
Posted byナニワの激オコおばちゃん

Comments 16

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彩希  

明治時代までの日本人と言うか大東亜戦争までの日本人と敗戦後の日本人では、すっかり違いますよね。比べると所謂、アメリカナイズされて骨抜きにされたのが今の日本人です。新渡戸稲造の「武士道」を読むと正座して読むべきかと思うほどで、古来から培われて来た日本人を自分の中に取り戻したいと切に思いますね。「武士道」の中の倫理は西欧の思想などとはかけ離れています。日本人であり、日本人であることを誇りに思い死ぬべき時を心得ていた人達がいました。

2019/02/15 (Fri) 17:41

愛信  

朝鮮人の傷害①

嘘つき朝鮮人に関わるな。
伊藤博文

朝鮮人の意識改革は不可能。
吉田松陰

朝鮮人は自分に都合の悪い時に
理屈の通らない愚かな嘘をつく。
夏目漱石

この世の中で救いようの無いものそれは朝鮮人。
新渡戸稲造

朝鮮は朝鮮人の競争で朝鮮を窮地に貶めている。
朝鮮に関わるな。
本田宗一郎

日本人は昔から朝鮮人を憎悪していた。
日本に於ける朝鮮問題は鎌倉時代の蒙古襲来から始まる。

詳細は
【集団通報 第1会議室の掲示板】朝鮮人の傷害①
http://www.aixin.jp/axbbs/kgs/kgs1.cgi

愛信情報市場(アメブロ版)
https://ameblo.jp/ax02ameba/entry-12440434003.html

2019/02/15 (Fri) 23:03

ちちんぷい  

まともでない相手を敵にするのにも慣れよう。

やはり江戸はすごいです。治水も農業も生産性をあげて、地場産業も特産品のネタもこの時代にしっかりと培われましたね。
(それでも商人に借金をかかえて困っていた藩もあったようですが)

そして、士魂。今回の記事にあるように、鹿児島薩摩藩というのは、いい意味で無骨な田舎侍だったかも知れませんが、後の維新に活躍する勇武の素地が昔からあったのですね。でも、彼らは知性も厳しく育てられたことが理解できました。西日本には、地理的な要素も加わって、西洋技術を取り入れた藩も多いです。もちろん、全国にもあります。

外敵には、自然災害に対するように、ひるまず冷静に自分たちのちからを発揮したのだと感じました。敵のことを自然の脅威のように尊重していますし。ただ刀を振り回すだけではありません。誇らしいです。

でもね、自然災害には狡猾さがないから、じわじわと狡さを発揮する汚い敵には弱いのかな・・・。

2019/02/16 (Sat) 00:01

ナポレオン・ソロ  

薩摩の郷中教育が培った士魂

 薩英戦争と言う薩摩にとっては一大事であった、事件を取り上げて頂いて
有難うございます。 薩摩は長州と並んで、維新の原動力になった志士を多く
輩出した土地として有名ですが、

 その歴史を紐退けば、源頼朝の庶子といわれる嶋津忠久公がの地から大隅の
地に入封されて来て以来、嶋津家が600年も代々安定した治世であったが、
砂糖キビの栽培を始め、当時は貴重品の砂糖の一大産業として、巨利を上げる
迄は、山幸彦、海幸彦の伝説に有る様に、海人族の本拠地で薩摩半島は阿多、
大隅半島は、吾平(あびら)、霧島の山岳部は曾於と呼ばれる地方に分かれて、
其々別の勢力の治める地だった様です。 そして、720年に大隅から隼人の大
乱が起っており、中央と大きな戦をして居ます。(与五郎どんの慰霊祭)

 固より、皇室の故地であると言う以外は、中央には「蛮族、隼人族の地」
として、警戒されて居ましたね。 然し雄略帝の御代に、帝が隼人族を殊の外
気に入られて、畿内に大量の屯倉(みやけ)を護る兵士、つまり近衛兵として
移住させた、と言う記録が有って、京田辺辺りには、今でも隼人舞と呼ばれる
踊りが伝わって居ます。 ですから、薩摩は、皇室に取って、やはり祖神の坐
す(います)処と言う認識が有ったのでしょう。 指宿神社の起こりは、天智
帝が遥々飛鳥から行幸された時に出来たモノと言われて居ます。

 私は、生まれたのは鹿児島市で、育ったのは其処から50㎞南に下った指宿
市と言う温泉街です。 維新前後の指宿は鄙びた温泉町に過ぎず、後に温泉を
利用した農業や観光業は、未だ萌芽して居ず、明治5年の戸籍を見ると揖宿郷
と言う記述が有りました。 ど田舎だったんですね。

 でも、そんな田舎の指宿でも郷中教育は盛んで、国民の在り方や国の現状を
子弟に、教えて居たたので、若者の維新に対する関心、つまり、日本の行く末
に関する関心は、一農民の小倅に過ぎなかった祖父も有った様で、後に祖父は、
日露戦争で海軍に14歳で一兵卒として入り、日本海海戦では、旗艦三笠の主砲
の弾運びをやって居たと言うのが、生涯の誇りでしたね。

 維新前後の話で、大久保利通と一緒に洋行した、村田新八と言う、英才が居
ましたが、彼は、同行した大久保が欧米の文明に一種のカルチャー・ショック
を受けて、価値観が可笑しくなって居ると批判し、逆に「欧米は、道徳的には、
学ぶべきのない所である、欧化する事を目的とする明治新政府の設立は失敗で
あった。」と言を残し、一切の官職を捨て去って、西郷を追って薩摩に帰って
その後に起った西南戦争で、最後まで西郷と生死を共にしました。。

 一方、長州の方でも、ドイツに留学して居た森鴎外林太郎「=後に陸軍の医
監」が、パーティで日本を嘲弄したナウマンと言う科学者に、「日本人は貴
方方の様に、弱いものや劣ったものだからと言って、差別したり弾圧する事
などせずに平等に扱って居る、2千年に亘って、磨かれた心性を侮辱されたの
では、武士としての一分が立たない、決闘を申し込む」と詰問してナウマンを
退場させた、と言う故事も有ります。

 我々現代人は、是等の日本の史実を俯瞰するに、確かに文化文明は発達
して物質に恵まれ生活も豊かになり医療も発達したが、どちらが人間と
してその魂の充実度合から言って佳き環境で有ったか、と考えれば、答
えは自ずから顕かで有ろうと思います。 我々は、この時代の精神を改めて学
び直し、以て、日本の未来に資して行かねばならないと思います。

2019/02/16 (Sat) 07:06

彩希  

To ナポレオン・ソロさん

とても良いお話でした。感銘を受けました。有り難う御座います。

2019/02/16 (Sat) 07:44

吹雪  

島津に暗君なし

>そもそも今で言うたら国の中の一つの「県」が、何で外国と戦争ができるんや、何にも知らんアホな日本人が、「生麦事件」という、前時代的な大名行列を横切っただけでイギリス人を斬り殺すという残虐な事件を起こして~

恥ずかしながら、「生麦事件」については、本当におばちゃんさんの御指摘通りの認識しかありませんでしたね。「生麦事件」と「薩英戦争」もそれぞれが歴史上の点でしかなく、にはなっていませんでしたね。勉強させて頂きました。情けない限りです。良いエントリーです。

<薩摩が薩英戦争で発揮した、近代文明を積極的に取り入れつつ、武士道精神を発揮する、という和魂洋才の姿勢は明治日本が国家的規模で再現し、イギリスとの信頼関係は日英同盟にまで発展していくのである。>

流石、「島津に暗君なし」と言われただけあって、薩摩藩は人物に事欠かないですね。薩摩藩では、腹黒さではピカイチの英国人と対等以上に渡り合うことができたのに、英国人と比較して単純な黒船に乗ってきた米国人を、上手にあしらう事もできなかった幕府とは対称的ですね。幕府に統治能力がなくなってきた証左だと思います。

昭和史もそうなんですが、幕末から明治維新への移り変わり、戦国時代から江戸時代への移り変わりと色々な戦争、紛争、事件が発生しますが、何故それが起きたのか?については、日本の教育、歴史教科書は、何も教えてくれません。

例えば、「何故、江戸時代に日本は鎖国したのか?」、「何故、豊臣秀吉はキリスト教禁止令を出したのか?」、「何故、豊臣秀吉は朝鮮出兵したのか?」これらの日本史の一大事について、教科書どころか日本の歴史学会は全く教えてくれませんね。まるでタブーの様です。

これらの答えのひとつとして、私は↓この考えに賛同しますね。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51429?page=3

そうです。これらの一連の出来事は、スペインによる侵略戦争、宗教戦争に対抗するため行われた出来事なんですね。もしも、キリスト教が戦国末期~江戸初期の時代に禁止されていなかったとしたら、日本は、西日本国と東日本国の二国に分断されていたかもしれません。秀吉は老害でも何でもありませんね。日本を救ったのです。そしてその後を継いだ家康も、日本国のことを考え鎖国することでキリスト教の更なる伝来を阻止しましたね。

ナポレオン・ソロさんのコメントを読んでいて、興奮と感激がありましたのでコメントさせて頂きます。

>後に祖父は、 日露戦争で海軍に14歳で一兵卒として入り、日本海海戦では、旗艦三河の主砲の弾運びをやって居たと言うのが、生涯の誇りでしたね。

ソロさんの御祖父様が、日露戦争に従軍し、帝国海軍旗艦三笠の艦上で日本海海戦を戦われたとは驚きましたし、改めて尊敬致しますね。日本海海戦は帝国海軍の歴史的大勝利でしたから、元気にご帰還されても不思議では無いのですが、それでもお礼を言いたい気持ちで胸が一杯になりますね。よくぞ戦ってくださいましたと。

戦艦三笠の勇姿は、今でも見ることができます。↓
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/

今の日本では、他国と戦争することは想像できませんが(このブログの読者様は毎日想像されていると思いますがw)、115年ほど前の日本人は、この戦艦に乗って戦っていたのですね。改めて、戦争と平和について考えるべきですね。それは、「戦争をしてはいけない、だから戦力は持たない。」ではなく、「戦争をしないためには、抑止力をどう高めるか?」というように論理的、現実的に考えるべきですね。お花畑はもう沢山ですw

2019/02/16 (Sat) 08:45

ナポレオン・ソロ  

日本文明と西欧文明のぶつかり

 彩希さんと吹雪さん、私の拙文に共鳴していただいたコメントを戴き、
感激して居ます。 有難うござい増す。

 吹雪さんのご紹介の「其れは一種の宗教戦争だった」を読ませて頂き
ましたが、やはり、秀吉や家康は、歴史に残るべき英桀だと思いますね。

 「日本を預かって居る」と言う、気概や責任感がひしひしと感じられ
ました。 この辺り、自身の王朝の利益、或いは、自身の利益しか顧み
ない、シナや欧州の覇王とは、為政者として意識に、天地の差が有る様
に感じます。

 秀吉と家康は、お互いが敵同士でしたが、彼らの取った政策には、
連続性が看られます。例えば、秀吉がやった検地のデータを家康が活用
して、其れまでバラバラだった年貢制度を一本化して完成させたし、
米国では、未だ出来て居ない、刀狩りでは、守護大名が永年悩んで居た、
寺院勢力を無害化出来ました。

 更に、キリスト教に関しては、秀吉が宣教師の態度からその布教の意図
を読み取り、キリシタン大名の高山右近が、火薬一樽と女性50人をバー
ター貿易して居る事を知って激怒、宣教師の追放令を発しましたが、是
を、家康が継承して禁教令を布きますが、最初は大して厳しくもなかった
のに、愚かな役人が取り締まりと称して弾圧をした為に、住民の怒りが
爆発、島原の乱が起りましたが、スペイン勢力は日本を陥落させる好機と
思った様ですが、欧州で敵対する新教のオランダ商船の4門の大砲の砲撃で、
立て籠もって居た、堅城の原城の石垣を破壊され、其処へ九州の大名勢力が
殺到して、凡そ3万人の信者が、皆殺しに成りました。

 この作戦を考え付いた松平伊豆の守は、異民族に対するキリスト教徒の
残酷さや身勝手さを、目の当たりにしましたし、宗教の怖さも身に沁た様
で、この後、宗門改めを行って、家の宗教を確定させ、仏教も事実上布教
禁止にしました。

 秀吉と家康に共通するのは、生産民である農民中心にした行政を、
行って、収穫物である米の単位を一石「=159㎏」と確定して、度量衡
の升や物差し等の計量器の厳格な単位の指定まで、不正が行われない様
な体制作りを行い、後世に米本位主義と言われた土地の租税の台帳を創
り上げた事は、世界でも最先端の経済政策では無かったかと思います。

 唯江戸期は、世界的に小寒冷期に有った為に、旱魃や冷夏が、定期的
に訪れ、亦、火山の大噴火等で、夏が寒冷化した上に、台風・大雨や豪雪は
勿論、地震、津波・高潮までが有ったと言うのですから、十分な防災設備も
なかった当時は、都度大変な時代であったので、宝暦・天保・天明の三大飢饉
以外にも、地方によっては、餓死者が出た時期が有った様ですが、お助け米や
年貢の免除等、救済策を取った裏には、武家層もカナリ厳しい生活を強いられ
て、それに耐えて居る事を、農民層以下が目の当たりにして知って居たから、
日本では革命に繋がる紛争は起らなかったのです。

 つまり、欧州やシナの様に力で民衆を抑えたのではなく、「共に、辛苦を
乗り越えよう」としていたから、江戸時代260年の平穏が成り立ったのだと
思います。 正に、艱難辛苦を玉にした、先人達のご努力に感謝ですね。

2019/02/16 (Sat) 11:40

日本国民  

胸が熱くなりにけり。

本日の論客の皆さんのお話は、賛同と感動と驚嘆の
渦の中に身を任せたかのように落涙と胸いっぱいの
感覚でございます。

其処から鑑みますと、今を生きる日本国内に於ける
洗脳教育やら、ねつ造ドラマやらの偏向ぶりには
憤りを感じるのみです。

互いに支え合って生きる社会体制を構築し、
継続していた日本国。

富と資産を奪取して、己の生きる事のみに
目の色を変える社会を構成する諸国。

さぞ諸外国の皆様(権力者)方からしたら、
滅法面倒で邪魔な存在であったことでしょう。

日本人のような価値観は、彼らにとって脅威です。

日清戦争も日露戦争も、(原因は朝鮮半島でしたが)
「義」ありきで戦いに挑み勝利しました。

その後の二度の大戦の最後で、とどめを刺された
ともいえる、惨憺たる状況。多くの国民の犠牲と
借金と賠償金の山。

GHQに於ける支配による日本人総愚民化の嵐。

それでも、日本精神(やまとだましい)は
滅びてはいないという事を信じて、今後の世界と
日本の動向を注視したいと考えます。

・・・「日本を取り戻しましょう!」・・・

2019/02/16 (Sat) 15:06

ローレン  

とてもとても感涙です

最近こちらのブログを観るようになったローレンといいます。
ブログ主様やこちらで書き込まれておられる皆様のような博学もなく、知恵も知識も
ないのですが、皆様の篤い想いに感銘と共感をしています。

今日本は本当に危機的状況ではないか、日本を日本人に取り戻したいと強く思っています。
私が今できることは問題意識があることは積極的にパブコメをすることと、請願書を出すことです。
そして少しでも同じ志の方々と繋がって行きたいと願っています。
もうご存知かもしれませんが、一度こちらのブログも訪ねて頂けたらと願っています。
済みません、私はPCもスマホもあまりできなくて、ブログ名しか載せられないのですが。。。
「足湯でよもやま話」(笑)さんです。
いろんな素晴らしい方々と繋がって、篤き思いで巌となり日本を取り戻したいです。

2019/02/16 (Sat) 17:19
ナニワの激オコおばちゃん

ナニワの激オコおばちゃん  

Re: タイトルなし

彩希 さん、コメントありがとうございます。
新渡戸稲造さんが「武士道」を書きはったのは、日本人の物の考え方があまりにも欧米のそれとは異なるので、それを何とか理解してもらわなあかん、と思いはったからでしょうね。

2019/02/17 (Sun) 15:08
ナニワの激オコおばちゃん

ナニワの激オコおばちゃん  

Re: まともでない相手を敵にするのにも慣れよう。

ちちんぷい さん、コメントありがとうございます。
自然災害には、縄文の昔から日本人はやられているので、きっと死生観にもめっちゃ影響してると思いますね。

2019/02/17 (Sun) 15:11
ナニワの激オコおばちゃん

ナニワの激オコおばちゃん  

Re: 薩摩の郷中教育が培った士魂

ナポレオン・ソロ さん、コメントありがとうございます。
ええーーっ、帝国海軍軍人のご子孫、ということなんですね。
まわりにそんな人がいらっしゃらないので、びっくり。ご縁ができてうれしいです(笑)。

2019/02/17 (Sun) 15:26
ナニワの激オコおばちゃん

ナニワの激オコおばちゃん  

Re: 島津に暗君なし

吹雪 さん、コメントありがとうございます。
堀井憲一郎さんの論考、拝読しました。とても説得力がありますね。
常に世界の中で日本を考える、幕末や維新の頃の日本人の方が、ずっと視野が広かったと言えそうですね。

2019/02/17 (Sun) 15:30
ナニワの激オコおばちゃん

ナニワの激オコおばちゃん  

Re: 胸が熱くなりにけり。

日本国民 さん、コメントありがとうございます。
明治人の気概を知ると、今の日本人、何やってんねんや!と不甲斐ない限りですね。

2019/02/17 (Sun) 15:32
ナニワの激オコおばちゃん

ナニワの激オコおばちゃん  

Re: とてもとても感涙です

ローレン さん、コメントありがとうございます。
「足湯でよもやま話(笑)」さんのブログ、少し拝読しました。
とても面白いですね。これからも読ませてもらいます。

> 今日本は本当に危機的状況ではないか、日本を日本人に取り戻したいと強く思っています。
・・・・・最近、このように思う人がどんどん増えてきているような気がします。

2019/02/17 (Sun) 15:40

ローレン  

ありがとうございます

ナニワの激オコおばちゃん様、横から偉そうに入っていた新座者にも
このように温かなお返事を頂き本当にありがとうございます<(_ _)>
私は主様との共通点は大阪人であることだけ。年はかなり上であろうと。。。
でも、足湯様もそうですが皆様から色々と学んでいき、繋がれる人に成りたいです!
時々お邪魔するかもしれませんが、よろしくお願い致します。<(_ _)>

2019/02/17 (Sun) 17:13

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