今や人類の敵となった中国共産党に媚びまくる、残念な歴史学者。日本人の敵にもなるで。


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Bell
>残念な歴史学者
残念な歴史学者、というより彼ら歴史学者も、そして憲法学者とかいうあやしい輩も反日勢力の手先なのですね。
日本人にウソの歴史をすりこみ、自虐史観をすりこむために戦後、ずっと活動しているのです。
戦後の世界史は『戦勝国が世界平和を守った』などという、今の国連の常任理事国が中心になって作り上げた大ウソの歴史であることが認識されだしています。
国連は今、たいへんな金欠らしいですね(笑)
実際には、戦勝国というのは、世界中を植民地支配してきた国々であって、歴史の真実が公(おおやけ)になることを恐れているのです。
だから支配したマスゴミを総動員してウソ、フェイクニュースをばらまき、真実は教えないようにして世界中を騙してきました。
日本国内においては、その役割をNHKが担ってきたのです。
『土幕民(どまくみん)』という言葉を知っていますか?
ググってみてください。
在日朝鮮人は、日本人の復活を恐れた、日本からの仕返しを恐れた戦勝国側、GHQの置き土産とも言われています。
日本人が復活しないように押さえつけておくために密入国した在日朝鮮人を送り返さず放置されたという話もあります。
土幕民 - Wikipedia
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B9%95%E6%B0%91
>土幕民(どまくみん)とは、かつての朝鮮半島に存在した一種のスラム住民のことである。
>土幕民の日本進出
>韓国併合以後、朝鮮人は日本(内地)各地に移り住むようになった。いわゆる
>在日朝鮮人である。そして、彼らは内地においても土地を不法占拠し、土幕を
>形成するようになった。酒井利男[3]によると、昭和初期に大阪市内だけでも
>144戸の土幕が存在していたという。やがて、彼らは集住するようになり朝鮮人
>地区を形成することになった。
とあります。この朝鮮人地区がコリアタウンです。
邪馬台国や卑弥呼が本当に存在したのかどうかは記録が魏志倭人伝しかなくわかりかねますが、遣唐使などについては、空海や最澄が昔の中国(唐)から真言密教や天台密教を持ち帰ったという事実もあり、これはこれで認めるところはあります。
ただし、そのころの昔の中国(唐)と、戦後の建国70年ほどしかない今の中華人民共和国を、同じ『中国』として同列にして考えることはできない、と言うことはできます。
空海や最澄が訪れたころの昔の中国(唐)と、今の中国人(漢人?)はまったく違う民族性、人種の可能性が高いわけですね。
三国志とかいう有名な話もあるわけですが、中国大陸も歴史を振り返れば争いが絶えず、支配者や統治国が何度も変わる歴史を繰り返していますので。
名無し
奈良女子大ですかー
「奈良女子大 藤井藍子 」でググろう!
ナポレオン・ソロ
「倭の五王」と言うのは、三韓征伐から40年も後に帰朝して、暫く
経ってから開始した、難波潟の南方に広がって居た、葦の原の湿地帯
を吉備や播磨から人を呼んで始めた大開墾に拠って、大水田地帯を創
りだし、この開墾に拠り、大食糧源が出現、民は栄え、人口もあっと
言う間に増えました。
この計画を企図し、監督した、工事期間の凡そ150年に亘る5人の帝
を、完成当時の五胡十六国時代の劉宋が、倭の五王と呼んだので年代は
確定して居ます。
私論ですが、大阪平野に広がる古墳群は、工事の残土を使って、帝の
業績をたたえる為に、墳墓を創った事に端を発し、曰く「民の感謝の印」
であると。
とはいえ、この辺りの日本史には、不明な点が多過ぎますね。 就中、
三韓征伐なんて、何で、即位したての仲哀帝が妊娠している神功皇后迄
連れて、遥々九州まで遠征せなあかんのか?
それに、当時は大伴氏と並んで、譜代の重臣だった久米氏が、先に、
日本武尊に拠って成敗した川上タケル兄弟で、落ち着いて居た筈の本拠
地九州なのに、何故か、半島の三韓「=百濟、新羅、高句麗」が、九州の
熊曽と組んで騒ぐのか、と言う謎も有りますね。
この謎を解くのに、私は、この500年位前に、新羅が慶州の山奥に鉄山を
発見して、日本の倭族と組んで、大陸と鉄貿易を行って居たと言う仮説から
始まる私論を持って居ますが、其れは、別に機会があれば、開陳したいと思
います。
兎に角、九州の抑えと頼んだ、久米氏に、何か異変が無ければ、帝自らの
出馬は無いでしょう。 つまり、其れだけ、本拠地の九州は未だ朝廷に取っ
て、大事な場所であった事に成ります。
処が、遠征した早々に、仲哀帝は、熊曽の流れ矢に当たって、薨去して終
いますが、神功皇后の父親の武内宿祢が差配を揮って、久米氏の残党に兵を
与えて、熊襲を抑えて居る間に、半島の主勢力の新羅を叩き、降参させて、
帰還しますが、この後、40年に亘って九州に止まらざるを得なくなって居
ます。
勿論、赤ん坊だった応神帝も、40年経てば、立派な大人ですから、40
念の間、九州で、祖父の武内宿祢や久米氏の残党と協力して、熊襲討伐を
して居たのでしょう。
然し、その証拠が残って居無いのは、やはり九州の久米が率いる海人族
との間に、色々あったのではないかと推察します。
「倭の五王」の時代は、開墾の所為で人口が増え、食糧の貯えも多く、
遠征するにも、事欠かなくなって居たので、五胡十六国の覇者に過ぎない、
劉宋王朝にとっては、東シナ海を隔てたダケの国ですし、もし、劉宋が、
五¥・胡「=5つの遊牧民」であれば、海流の向きなど理解できないでし
ょうから、脅威に関居たかもしれませんね。
この時代の終焉は、武烈帝と言う暴君が出現し、其れを過信の大伴金村
が誅殺して終いましたが、5代目の雄略帝「=倭王武」が、自分の血筋以外
を、排除sた為に、後継が居無くなり、仕方無く、応神帝5代の末と言う、
丹波の海人族の王、オオド王を、後継者に選択しましたが、当時、敵方と
して対峙して居たので、中々肯んじる事が無く、武烈帝の姉君を嫁に出す等
しましたが、樟葉宮「=今の大阪府高槻市」を建てて、即位したのは。金村
が没する20年後の事だったとの事です。
abb
歴史学者さんの執念には、一応、敬意を、、???
疑問だけどね。
現代の経世済民オンチにして、火病得意とは。
おばちゃん、遠巻きに応援しています。
コメント欄の、ある気持ち悪さは変わりません。
読者のかたの判断に掛かります。
こりないのは懲りないんだね。
ある種、マッチポンプを見てても、しょうがないこともあるし。
こねてるだけあって、テクは巧み、なんです。
それぞれで、ご判断ください。