日本は戦争を仕掛けた悪い国?ちゃうちゃう、しっかり勉強せな。まだ負け続けてるんやで。

頷く小


 私は何べんも、恥を忍んで(笑)自分は昔はアホやった、今は「覚醒」しました、とここで書いてます。まあ何も失うものもありませんから、他人様からみたらそれでどないしたんや?で済む話なんでしょうが、これが人気のある著名人やったり、政治家やったら、どうでもええ話にはならへんわけですね。あ、何が言いたいかというと、昨日も書きましたけど、いまだに多くの日本のエラい人たちで、自虐史観に洗脳されたままの人がいっぱいおる、ということです。

 中でも一番問題なんが、「日本は戦争で悪いことをした」、「迷惑をかけた」とかいうものでしょうか。日本人が反省せなあかんのは、戦争をしたことやなくて、戦争に負けたことですね。こう言うと、おパヨクさんは大騒ぎをしてきますね。おそらくそんな騒ぎに負けて、原爆記念碑の碑文には、「過ちは繰り返しませぬから」みたいなことを書かされる羽目になってしもてるわけですね。

 もともと私のお母ちゃんは、実家が商売をしていて、戦争のせいで家が全部焼けてしもたもんやから、当時、年を取ってた親、つまり私のおじいちゃんは、もう商売の再開をあきらめた、と。お母ちゃんが子供の頃は、住み込みのお手伝いさんがおった裕福な家やったんやで、戦争でえらい目に遭うたわ、という認識でした。せやから、なんで戦争なんかしたんや、と私は日本の近現代史には昔から興味を持っていました。

 ようやく「覚醒」して、近現代史の勉強で最初にびっくりしたのは、日露戦争についての評価です。これは若狭和朋さんの『日露戦争と世界史に登場した日本』を読んだのが最初でした。そもそも自虐史観やと、日清日露の戦争なんて、日本が「侵略戦争」を始めた忌まわしい、薄汚い戦争、ぐらいの、絶対マイナスのイメージでしたからね。まあおパヨさんたちは今もそうでしょうけれども。

 日露戦争は、実は世界史を根底から変えた、ものごっつい大事件やったということを、この本で知りました。まあそれからは一気にいろんなことがわかってしもた、というわけですね。そして、大東亜戦争の時のアメリカ大統領、ルーズベルトは、実は帝国海軍が真珠湾を目指して進んでいることを知っていたわけですね。アメリカ側は何としてでも日本に「奇襲」させる必要があった、ということですね。

 もうだいぶ、このことは常識になって来てますが、教科書ではまだ一切、そんなことは書いてませんね。安倍ちゃんが最初に教育に手を付けたのはようわかりますわ。まだまだですけれどね。そもそも教科書にはいまだに南京虐殺やら慰安婦やらを書いてるところがあるというのは、もう許せませんね。敵国のプロパガンダを自国の教科書にわざわざ載せている、アホな国やんか。

 話は戻って、ルーズベルトにとっては真珠湾で自国の兵士が何人死のうが別にどうでもよかったわけですね。なるほど。2001年の911も同じですね。これはまだ解明されてはいませんが、恐らくそういうことでしょう。戦争をするためにわざと自国の犠牲者をつくる、と。もう人間のすることやないな。それほど世界は邪悪や、ということを日本人はしっかり認識せなあきませんね。

 昨日、米朝実務者会談があってアメリカ側は、実りある話ができて、2週間後にまた話し合おう、と発表したのに、北朝鮮側は「決裂や!」と発表しました。もう、キツネとタヌキの化かし合いかいな。私ら日本人は、冷静に真実を見分けられるように、しっかり情報収集しましょう。

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ナニワの激オコおばちゃん
Posted byナニワの激オコおばちゃん

Comments 8

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八丈島  

元TBSの山口さん、韓国軍のベトナム戦争での虐殺の話をしていたけど、村人すべてお年寄りから赤ちゃんまで皆殺しにしたらしが、命令したのは米国らしい。ほんまにあいつらのやること同じ人間とは思えん。聞いてて吐き気がしてきた。韓国人もやけど米国人もや。

2019/10/07 (Mon) 17:26

彩希  

まだ御成婚前の、お若き昭和帝が皇太子であらせられた時、ヨーロッパ御訪問の折りに寄港されたアジアの国々は何世紀もの間、白人国に植民地にされ人々は牛馬の扱いを受けていました。ですから、同じ有色人種である日本人が日露戦争に勝利したことは殊更に彼らを鼓舞し日本は仰ぎ見られていた国だったのです。

🔻戦後日本の独立の恩人。日本人はこのことを忘れてはいけない。
https://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/34079671.html

スリランカの歴史ほど悲しいものはない。1505年にポルトガルに植民地支配され、その後もオランダ、イギリスと、500年にも亘って白人に搾取されてきました。

大正10年、スリランカはイギリスの植民地で、人々は牛馬のごとく扱われていた頃、昭和天皇(当時皇太子)がヨーロッパに御巡遊されるため、お召し艦「香取」、供奉艦「鹿島」の2隻で編成された第三艦隊がスリランカ(当時はセイロン)の首都コロンボに入港されました。

この時、ある少年が母親に丘の上に連れて来られて、こう言われました。

「見よ、あれが大国ロシアを破った日本海軍の艦隊よ。日本人も私達と同じアジア人。アジア人もやれば出来るということを日本人が見せてくれたのよ」。

この時、丘の上には多くのスリランカ人が集まって来て、遠い眼差しで日本海軍の艦隊を見ていました。

以来、この少年は猛然と勉強して、やがてスリランカの独立運動に加わり、そして大統領になったのです。この少年の名はジャヤワルダナと言います。

ジャヤワルダナ。この名前を知っている日本人は少ない。教えないからです。

戦後、日本が主権回復するためのサンフランシスコ講和会議に、スリランカの大蔵大臣として出席したジャヤワルダナは、会議の冒頭で「日本に対する賠償権を放棄する」と宣言し、このように発言しました。

「アジアの諸国民は、なぜ日本が独立することを望んでいるのか。それはアジア諸国と日本の永い結びつきであり、白人の植民地として屈辱的地位であったアジア諸国民が日本に対して抱いている深い尊敬である。

アジア諸国民の中で日本が、唯一自力で独立国として、強く、自由であった時、アジア諸民族は日本のようにやればできると仰ぎ見た。

ビルマ、インド、インドネシアの指導者達の中には祖国が解放されることを願って、日本に協力した者がいたではないか」

これこそ白人から植民地支配を受けていたアジアの人々を代弁した発言でした。それはただ一人、白人達に戦いを挑んだ日本に対する尊敬の念を持つ演説でした。

ジャヤワルダナの演説に万雷の拍手が起こり、この演説が講和会議の流れを変えて、日本の国際社会復帰を大きく後押ししたのです。この発言に吉田茂全権も感泣したのです。 

その後、日本はスリランカにとって最大の資金援助国となります。そのことをスリランカの人達はよく知っていて、日本人に対してとても感謝しているのです。

昭和天皇の大喪の礼の時にはジャヤワルダナは強く希望して、時の大統領に代わって参列されました。きっと少年の頃に丘の上で母から言われたあの言葉を思い出していたのではないか。

1996年、ジャヤワルダナが亡くなる時、遺言として「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」と、日本人に角膜を寄贈されました。遺言通り左目は長野県の女性に移植されたという。彼は心の底から日本と日本人を愛していたのでしょう。
……………
サンフランシスコ講和会議での、この方の演説が日本を(多分、米中ロシアの)分割統治から救った事は日本人には余り知られていません。知られざる両国友好の歴史がこちらに詳しく書かれています。

🔻日本を分割占領から救った、スリランカ代表の「愛」の演説
https://news.infoseek.co.jp/article/mag2news_181484/

1951年に開かれた、日本の運命を左右する「サンフランシスコ講和会議」。その席上、日本を分割占領から救ってくれたのが、当時スリランカ代表を務めていたジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ氏でした。なぜスリランカは日本を擁護してくれたのでしょうか。
……………
なので、スリランカが中国の一帯一路の策略に弄されて膨大な借金と引き換えに港を盗られてしまったと知った時には何故、日本はスリランカを助けなかったのかと思いました。中国は日本の石油タンカーの通り路シーレーンを狙っていて航路を妨害されるようになれば日本は終わりです。中国は既にケニアの港も手に入れてしまっていて、日本は完全に出遅れています。

8月の終わりに日本でTICAD (アフリカ開発会議)が開催されて国連からとアフリカ各国の代表が集まり、その席で総理はアフリカ各国を借金漬けにしない為に透明性の高い融資を押し進めると表明したのですが、つい先日、NY での国連総会からの帰途にEU に立ち寄ってインド太平洋地域、アフリカ、中央アジア、西バルカンへのインフラ投資をEU と協力する合意文書に署名して来ました。つまり借金浸けにして港湾や土地を奪う中国の一帯一路をEU と一体になって邪魔をすることにしたわけです。

一方で総理はキンペーを国賓で招くとか表面上では中国との友好を前面に押し出してます。軍隊を持たない国は哀しいですね。仕方ないです。日本はアメリカみたいに正面切って中国とは対決できないのですから。

❮参考❯
海外「安倍さん、ありがとう!」 安倍総理がアフリカ諸国に発した警告が現地で大反響
http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-3177.html

中国の「一帯一路」意識 日本とEUの蜜月 - 産経ニュース
https://www.sankei.com/smp/premium/news/191001/prm1910010008-s1.html

2019/10/07 (Mon) 21:11

彩希  

日本人は敗戦したことで、すっかり自信を失い、特アとアカ、そしてWGIP「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」で、自虐史観まみれにされてしまい、どこか後ろ暗い事があるかのようになり、知らずに来たこと、教えられず来た事、隠されて来たことが他にもあります。

日露戦争に勝利した日本に勇気づけられた非白人国はアジアやアフリカだけではない南米にも居ました。アルゼンチンと言えば日本人にはメッシで発展途上国のイメージしかありません。実際、今年のことだったか、アルゼンチンは経済破綻をしてIMF に介入されています。

🔻「君は間違っている!日本が日出づる国であるのは戦争に強かったからではない。」より抜粋
13/12/02 16:02
https://blog.goo.ne.jp/s6990714726/e/63d8b401dc8267a94b1b462e31b36e43

「君は間違っている!日本が日出づる国であるのは戦争に強かったからではない。」私はこれを聞いて、涙があふれ出るのを押さえきれませんでした。高木一臣
2013年11月24日

大東亜戦争後、アルゼンチンに移住した高木一臣氏の回想録はこう書いています。

私が祖国・日本を離れ、このアルゼンチンに来て、五十年が経ちました。一九五一年六月、私は全くスペイン語を知らないでこの国にやって来ました。

当時、無一物の私は、無料の国立夜間小学校のあることを知り、強引に校長先生にお願いして入学を許されました。そして、日本の大卒でしたが、子供たちと机を並べて勉強し始めました。

小学校を終えると、次に夜間の国立中学校に入学しました。二十六歳の時でした。

入学して一年、歴史の授業での出来事です。先生は生徒を名指しし、教壇に呼び出して復習してきたかどうかを質問します。

その時、「ホセ、前に出ろ」 「ファン、前に出ろ」と名前で呼ぶのが常でした。ところが私の場合、なぜか「高木」でも、下の名前でも呼びません。

「日出づる国の生徒よ、前に出ろ」と呼んだのです。

私はこれに対し、「先生、日出づる国の生徒よ、という呼び方はやめて下さい」と言いました。

「なぜか?」と反問する先生に向かって私は、「先生、太陽は落ちたのです。日本はもう日出づる国ではなくなったのです」と答えました。

しかし、先生は「君が太陽が落ちたと言うのは、日本が戦争に敗けたからか?」とたずね返してこられました。私が「そうです」と答えると、先生はキッとした厳しい顔つきになりました。

そして、「君は間違っている!日本が日出づる国であるのは戦争に強かったからではない。

日本はアジアで最初に西欧文明を取り入れて、我がものとし、世界五大強国の仲間入りをした。そのことに示されるように西洋文明と東洋文明という全く異質の文明を統一して、世界文明を創り上げる唯一の能力を持った国である。この難事業をやり遂げるのは日本をおいて他にはない。

日本がこの能力を持ち続ける限り、日本は日出づる国であるのだ。戦争の強弱などという問題は西洋文明と東洋文明の統一という大事業の前には取るに足らぬことなのだ。

君は日本が戦争に敗けたからといって、卑屈になる必要は少しもない。『俺は日出づる国の人間なのだという誇りと精神を失わず、胸を張って歩きたまえ』」と私に向かって言われたのです。

私はこれを聞いて、涙があふれ出るのを押さえきれませんでした。

・・・・・・ PHP研究所「愛国心の教科書」から
……………

明治27年、日清戦争がはじまると大国である清国を相手に奮闘する小さな島国日本の姿に共感と熱いまなざしとを向けていた国がありました。日本とは地球の反対にあるアルゼンチンでした。

今では「大航海時代」と教えられる15世紀の本当の姿は、南米にスペインやポルトガルがやって来て、先住民を虐殺し、奴隷にし、金銀を奪い、西欧は益々栄える一方で、南米にとっては悲劇の始まりでもありました。

そのアルゼンチンはかつてスペインの支配にありましたが、1816年に独立しました。しかし、アルゼンチンはヨーロッパやアメリカの圧力のために常に緊張した状況が続いていましたが、決して屈することなく独立を堅持していました。東洋の小国であった日本が大国の清国と堂々と戦う姿を見て勇気づけられたのでした。

当時のアルゼンチンの新聞にはこう書かれていました。

「日本は10倍もの人口を持つ大国に挑戦するという、これ以上望むべきもない勇猛さと剛胆さを体現しているのであるから、我々は清国より日本に共鳴せずにはいられない」

さらに日本の国歌・君が代についてこう書いています。「その荘厳な旋律は極東の穏やかな国民の気質をよく表している。またその一風変わったハーモニーは異国情緒を感じさせるに十分である」と絶賛しました。

その後、日清戦争は日本が勝利し、アルゼンチンは「これからは日本を手本にすべきである」と日本の研究をはじめ、明治31年には日亜修好通商航海条約を締結します。

そのアルゼンチンが最も日本に関心を高めたのは日露戦争でした。「なぜ日本はロシアに勝てたのか」、アルゼンチンは分析をはじめました。

日本は東洋にあって西洋文明の優れた部分を取入れ、また他方では自国の伝統を遵守し、継承している国である。そして、その根源は聖徳太子の憲法十七条にある。

日本ではすでに604年に憲法が制定され、その憲法には「和をもって貴しとせよ。群卿百寮、礼をもって本とせよ。 それ民を治める本なり」と定めている。それに対して白人は傲慢で無礼で、暴力的で威圧的に人間を統治している。

日本の精神は「道徳」によって社会を律し、国家への「忠」、親への「孝」、夫婦の「和」、兄弟の「愛」が宗教人としてではなく社会人、家庭人として義務とされている。

特に高く評価するのは日露開戦の詔勅と同時に出された文部大臣訓令の「日露開戦につき戦時教育上の心得に関すること」である。

これは開戦になる前夜、「ロシア憎し」と言う声が日本各地に高まっており、大人は“ロスケ”と呼び、子供達もそう呼ぶようになってきた。

こうした状況で文部省は全国の小学校に「敵といえども屈辱することなかれ」と戒める訓令をだした。日本という国はこういう倫理性のある国柄である。・・・

アルゼンチンの日本分析の最後にはこう締めくくられました。

「日本国民は見識を持ち、勤勉かつ壮健である。彼らの中には祖国とその偉大な人物への崇拝心が混在している。戦争に勝利したのは東郷でも大山でもない。

戦争に勝つには優秀な将軍だけでは十分ではなく、優れた軍隊が必要なのであり、そして優れた軍隊をもつには堅牢に建設された国家の存在が不可欠なのである。日本という国は国民全体の資質が極めて高く、それが日本の国家の基盤である」と指摘しています。
……………

日露戦争当時、日本はアルゼンチンから「リバダビア」と「モレノ」 2隻の最新鋭巡洋艦の譲渡を受けました。これらの2隻はそれぞれ「日進」「春日」と名付けられ、対バルチック艦隊との日本海海戦で偉功を立て、このときアルゼンチンから派遣され、戦況を観戦していたドメック・ガルシア観戦武官は、後に海軍大臣となり両国の長い友好の歴史において名を残した方でした。

☆「日露戦争に今,何を学ぶか』と題して,平成16年に日本会議熊本で行われた占部賢志氏の講演記録の一部を切り取り授業書にした。╱ より抜粋
http://www.sanjo.nct9.ne.jp/yocchaki/kigai/nichiro/nichiro_argentin.html

【説明】「日進」に外国人が乗っていたのです。
   アルゼンチンのガルシア大佐です。戦いの様子を観察し勉強するため「日進」に乗っていました。観戦武官と言います。中立の立場をとるという約束で,国際法で認められていました。

〈注〉当時,観戦武官として,世界各国から選りすぐりのエリート士官42名が佐世保に集まった。しかし,実際に日本の艦船に乗ったのは僅かに3名であった。

【説明】しかし,砲術の専門家だったガルシア大佐は,倒れた砲術長に代わって砲撃の指揮をしました。国際法違反です。

【発問】国際法を違反してまで,「日進」の砲撃を指揮したのは,何故でしょうか。

  「砲撃しないと自分が乗っている船が沈んでしまうからです。」

【説明】日本とロシアの戦いは,どこからどう考えても「日本に正義がある」と,ガルシア大佐が確信していたのです。ガルシア大佐のお孫さんのホラシオ氏が,次のように語っています。

  「祖父は日本を知り,この戦争の意味を知っていたからこそ,信念を持って協力に踏み切りました。」

【説明】当時,日本はガルシア大佐に対して公に御礼をする事は出来ませんでした。国際法違反をした事がばれてしまうからです。ガルシア大佐に迷惑が掛かります。 ..........しかし,密かに御礼の品を渡し感謝の言葉を述べた方がいらっしゃいました。

【発問】誰でしょうか。

  「分かりません。」

【説明】●明治天皇です。明治天皇は全てご存知だったのです。    

【説明】ガルシア大佐の母国アルゼンチンは,日本をどのように見ていたのでしょうか。当時のアルゼンチンの新聞記事(「ナシオン」)を紹介します。日露戦争に勝利した日本を次のように讃えています。

  「日本は歴史に記録される最も偉大な成功を収めた。」

【説明】続いて,日本が勝利した理由を述べています。幾つか紹介します。

  「日本では,既に604年に憲法が定められている。」

【説明】聖徳太子の「十七条の憲法」ですね。日本では,遥か大昔から憲法が定められ,国が治められているのだと。更に,次のように続きます。

  「現在アジアで憲法をもつ唯一の国である日本は,脅しによるのではなく,道徳によって国民の生活が平和に保たれている。」
  「勝利をもたらすのは,爆薬の威力ではなく,人間なのである。
   日露両国民の精神は十世紀も十五世紀もかけて形作られてきたのであり,その結果として四五〇〇万人の日本人が一億三五〇〇万人のロシア人を打ち破ったのである。」

【説明】日本国と日本人全体の質の高さが勝利の源である,と主張しているのですね。

【説明】アルゼンチンは,今も親日国です。
    明治天皇が御礼の品として渡されたものは,
    百年経った現在もアルゼンチンで大切に保管・展示されています。

✳アルゼンチンは敗戦した日本に船にいっぱいの救援物資を積んで届けに横浜港に入港した時、港に外国船が入港する時は、その国の国旗を掲げることになっているのだそうですが、占領下の国では許されておらず米軍に日の丸を降ろせと命令されたにも関わらず、我々の船は我々の国だと日の丸を降ろさなかったそうです。

2019/10/08 (Tue) 09:55

ナポレオン・ソロ  

>彩希 さん ソロです。
 今日も良いお話の紹介有難うございます。
 恥ずかしながら、ジャヤワルダナ氏の名前は、初めて知りました、読んで
居て不覚にも号泣して終いました。

 私は、この頃、戦前の日本人が、どの様なアジアを、否、どの様な世界を
いたのか? と言う疑問に取り憑かれて居ます。 其れは、この30年の間に
日本が、世界でやった事を、追跡して看れば、バブル崩壊で、東南アジアに
生産拠点を移した事を契機に、白人国家なら、経済植民地てきな経営をする
つまり、安い労賃で、単純作業で済む消費材の部品だけを生産して、日本に
送り、製品化する、或いは、現地で製品化するが、製品化したモノの諸権利
は絶対に現地企業に譲渡し無いと言うやり方です。

 こうしたやり方は、白人国家が過去からずっとやって来た事で、例えば、
セイロンは、紅茶で有名ですが、セイロンには、紅茶が世界で売れたとして
も、儲かるのは、英国の商社だけですね。セイロンブランドの紅茶なんて
世に有りません。

 つまり、英国は400年に亘って、紅茶の葉と労力を、セイロンから搾取
して来たワケですね。

 処が日本企業がやった事は、現地工場の従業員の給料を、他の何処より
も高く設定して、優秀な人材を集め、生産技術を叩きこみ、経営手法や労
務管理を教えます、更には、現地のインフラ状態を考慮して、現地ニーズ
を調べあげて、例えば洗濯機の遠心脱水機を止めて、ローラ式に戻す事で
使用電力と洗濯機の価格を下げて、売りだしました。

 その結果、現地ブランドの洗濯機が飛ぶように売れたと言う話です、こ
うした「買う人の身になって考える」「買えるレベルの製品を作る」と言
った仏教思想の利他心に根差した作戦です。

 そして、その国のトップクラスの給与水準は、維持したので、国には、次
第に、中間所得層が育ち始め、何時の間にか、国自体が大きな消費圏に成長
しつつあります、私は是を日本の「植林思想」と呼んで居ます、400年も植
民地をやって来た欧米文明には、絶対に真似の出来ない事ですからね。

 この考えは、間違いなく戦前の発想です、ダカラ「大東亜共栄圏」なので
しょう。 でも戦前には、味方になる国が居ず、反対に欧米諸国を利用して、
自分だけ、金儲けをしようとした、シナ人やインド人ばかりだった事も我々
は忘れてはいけない事ですがね。

2019/10/08 (Tue) 10:32

でゅーぷす  

若者の街 愛知県日進市も「日進」が由来だと言われています

https://ja.wikipedia.org/wiki/日進市
<市の名称について
・・・
市の名称が日進の名前の由来は、日露戦争における巡洋艦日進の活躍にちなんで名づけられた説[1][2]もあり、古くからの地名にゆかりがないこと、また市章の旭光紋が古めかしいとの印象論で、これらの変更を求める一部世論もあるようだが、市民アンケートの結果により[要出典]、現行維持が選択されている。(日進市章1906年(明治39年)5月制定)>

軍艦「日進」に由来
http://www.city.nisshin.lg.jp/department/kikaku/hisho_koho/110date/2006.html
<日進の名は、1905(明治38)年の日本海海戦の勝利に貢献し名をはせた巡洋艦日進に由来する。大正の『愛知郡誌』には、「村名につき熟議を重ねしが、時恰かも帝国軍艦日進の進水式を挙げしに会せしを以て、議一決して日進村とするに至りしなり」と記されている。

日進はアルゼンチン用としてイタリアで建造された巡洋艦「日進」「春日」の2隻を日本が購入したものである。1904(明治37)年2月、横須賀に回航され日本海軍に編入、翌3月に名古屋に入港し、市民の盛んな歓迎を受けた。>

2019/10/08 (Tue) 14:14

弓取り  

守るので精いっぱいだった

日本は自衛戦争しかしていません。あるいは日本人居留民の保護や地域安定のために、軍隊を出したのです。それでも巻き込まれた。

敵は欧米露白人の侵略者でした。あるいは、大軍事を握らないと政権を取れないシナ大陸のように、シナ人同士の内部闘争や人気とりの出汁にされたのです。
侵略意識の高い敵を押し返すための橋頭保を確保することまで、日本から仕掛けた戦争であるかのように歴史が固定されています。

彩希さま
>🔻「君は間違っている!日本が日出づる国であるのは戦争に強かったからではない。」より抜粋
 アルゼンチンの先生の話し。他で読んだ記憶があります。良い話しですよね。
この先生は、高い知性と人間性を併せ持つ人物だと感心させられます。
果たして、こういう人物が特あ諸国にいるだろうか。いても、低民度の群れの中に消されるのでしょう。

ともかく、日本で「先生」と呼ばれる人に多くいてほしいものですね。歴史を固定している「先生」には期待できません。

2019/10/08 (Tue) 22:47

彩希  

戦前の日本に戻ればいいのにと言うと、軍国主義に戻れと言うことかと思われそうですが、そうではなくて戦前までの日本人が築いてきた引き継いで来た精神性を取り戻せればいいのにと思いますね。でももう、戦後70年以上を経ていて何もかも無茶苦茶。戦後から日本はアジアに悪いことをしたと言う教育が始まってしまいましたからね。

でも私よりずっと早くに高校の頃からネットを始めていた甥は「日本は何にも間違ったことはしてないよ」と言いますね。全く学校教育に毒されていない、目覚めている日本人の発芽はあるように感じます。まあ周りは、そんなんばかりじゃないとも言っていましたけどね。

2019/10/09 (Wed) 06:06

ナポレオン・ソロ  

>彩希 さん ソロです。
 余計な突込みかもしれませんが「戦前が軍国主義だった」のは、寧
ろ日本は昭和6年から、或いは、12年の支那事変から最長14年、最低
でも8年間は戦争状態にあったわけですカラ、軍事優先の状況を軍国主
義と呼ぶなら、そうでしょうね。

 でもそれは、何処の国でも戦争状態になれば、軍国主義にならざるを
得ません。負けたら国民が大変な事に成るんですからね。

 私は、「戦前に戻れと言うのか?」と言う、言い方自体が、戦前日本
が、侵略を企図する、戦争大好き国家だったと言う、貶めるプロパガン
ダのWGIPの考えそのモノの様にしか燃えませんね。

 マスコミに洗脳されて、自分の頭で日本を考えられない程度の人間が
言う事だと思います。 

 スイマセン、こう言う事には、脊髄反射的に拒否感が発動するので、
つい・・

2019/10/10 (Thu) 16:14

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